愛情とは習慣でしかないのかもしれない

随筆

先日、妻と2人で買い物帰りに歩いていたとき、とある老夫婦が歩くのを見かけた。

お爺さんがひとりスタスタと歩いて進み、お婆さんとの距離がどんどん離れていく。

お婆さんは脚が不自由なようで、片手には杖を、もう片手には買い物の荷物と思しき袋を持ってゆっくりと歩いている。

お婆さんは「お父さん!お父さん!」と声を掛けるんだけども、お爺さんは振り返ることなくとにかくスタスタと前に歩いてくのである。

高齢による認知機能の低下かもしれないし、直前にめちゃくちゃな夫婦喧嘩をしたのかもしれない。が、私と妻は、恐らくそういうことではなく「そういう人」なんだと思った。

私は妻と顔を見合わせ、なんだかなぁ、と思いながら話す中、「愛情の土壌がない人」なんて言葉が出てきた。

私の経験則に過ぎないのだが、そういうジジイってめちゃくちゃ多い。

待っていれば3食メシが出てきてくると思っているし、寝て起きれば服が新しくなっていると考えている。

昔は男は働き女は嫁に入れば専業主婦になるというケースが多かったから、「役割分担としては」先述のような生活をしていてもおかしい話ではない。いろいろ議論はあるが、それも1つの役割分担だ。

そうやって担当業務をこなせば家事は済むが、それだけでは愛ある家庭を築くにはきっと足りない。互いに恩と感謝を背負い、なんらかそれに報いる行動をする必要があるように思う。

よく、家事労働を金銭に置き換えて考えると○○円の価値があるというが、それにはあまり意味がないように思う。家事代行を頼まなければ価値が金銭に置き換わらない。

そこに金銭的な価値を持ち込んで考えがちなのが昔の男性なのではいかと思う。すなわち、私が稼いでやっているんだから、代わりに家事するのは当然だ、という金銭的な尺度によるギブアンドテイクを考えてしまう。

稼ぐことは現金資産を増やすことに過ぎず、それを以て愛のある家庭を作ろうという人の意思と行動をして初めて家庭にとっては意味のある行為である。そういった行動は家事と等しく恩であるし、互いにそれに報いるには感謝しかないのだと考える。

じゃあ愛情とはなんだ?と思うことがある。

例えば、私の父親はいつも穏やかにニコニコしているが、知る限り家庭を顧みないサイコパスな言動を繰り返してきた。彼に愛情があるのかというと、家族は首を傾げると思う。

誰だって腹の底では何を考えて行動しているのかわからない。相手のことを思って取った行動が裏目に出ることなんて多々ある。それは結果として愛の感じられぬ迷惑行為だったりすることもよくある。全く愛情とは何なのだ。

私自身が情に薄い人間であることは自覚している。強く何かを想う心がない。そしてそれを良しとしていなくて、できれば愛のある人間になりたいと思っている。

誰に教えてもらったんだか、たまに思い出すツイートがこれである。好きだ。

揚げ足を取るのではないけれど、「無意識に」というのが私には難しい。何も考えなければ、誰のためにごはんを作ろうとも、より美味しそうな方の皿を自分の前に並べてしまうタイプだと思う。

ここでの「無意識に」は例えば「習慣的に」と読み替えるとしっくりくるかもしれない。

私は、具がバランス良く入った方のお味噌汁とか、美味しそうな方のおかずを妻にあげることにしている。頻繁に料理を作るようになってしばらく、これはもう習慣と言って良いかもしれない。

父親の最近の行動で少し特徴的なのは、たまに実家に帰ってきた子どもたち、すなわち私と妻、姉夫婦が、それぞれ自分の家に帰るよというとき、玄関まで見送りに来るようになった。ここ数年、習慣的にそうなのである。これが1回こっきりならば、そんなこともあるよね、という話で終わるのだけれど。

昔は全然そういう礼節や愛情のありげな行動が一切できなかった父親が、最近は帰る度に、玄関まで見送りに来るのである。これは一つの愛情表現なんじゃないかと思うようになった。

逆のことを考えたい。例えばお金のない浪人時代に経済的支援をしてくれた親類。これについては多大な恩があるわけだけれど、じゃあそれが「愛情」なのかと言われると、しっくり来ない。

そんなことから、愛情とは習慣でしかないのかもしれない、と思った。

部屋の片付けをすること、皿を洗うこと、ご飯を作ること、料理の美味しそうな方を相手にあげること、仕事に行く人を玄関まで見送ること。それを毎度じゃなくてもいいから続けること。

そういうことが最近は愛情なんじゃないかと思うし、愛情の土壌を耕す行為に他ならないのだと思う。

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