田舎が嫌い

随筆

子供の頃、阪神間の郊外から田舎に引っ越して、田舎が嫌いになり、大人になって都会で暮らしている。

子供時代も、思春期の頃も嫌だったし、大人になった今、田舎に戻ろうとは微塵も思わない。ここでは、ライトなところからディープなところまで順を追って何が嫌いか説明したいと思う。

前置きだが、田舎を馬鹿にしているのではなく、私自身の経験から嫌だと思ったことを書いているにすぎないと思っていただきたい。だからエビデンスなどはないし、「それは田舎が悪いんではなくて個人の問題だと思う」とかそういう指摘は無用である。

また、ひとしきり愚痴をしたためるこの記事の文末にまとめはない。

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圧倒的不便

田舎は圧倒的に不便だ。どこに行くにも遠いし、車がないと何もできないし、映画館や美術館、ライブハウスも何もない。

クルマがないとマジで何もできない

都会なら、家選びの基準の1つに「駅から○分以内」なんてことがあると思う。

田舎にはそもそもそんなレベルの話が存在していなくて、駅とはわざわざ電車で都会に行く場合にクルマで向かう場所なのである。

田舎の施設はとにかく分散している。徒歩圏にスーパーと役所と文化的な施設があるということはまずない。それぞれの間はやはりクルマで移動しなくてはならない。

これは子供にとって地獄である。親がいないとクルマが動かないからどこにもいけない。それが嫌ならチャリンコを死ぬほど汗かきながら長時間漕げということになる。

高齢になってからも地獄である。高齢ドライバーはさっさと免許証を返納するべきという考えには賛成だが、田舎ではそれができない。自分の代わりに運転してくれる人がいないと全く無理である。

行政もできる限りは尽くすので、例えば高齢者は無料のコミュニティバスを走らせたりするのだが、需要と財政の関係からせいぜい1時間に1本ぐらいしか走らせることができない。

クルマで走れども何もない

そもそもクルマがあったところで、何もないのである。

映画館もライブハウスも流行りの服屋も甘いものを売っている店もない。

思春期を想像していただきたい。高校生、放課後、制服のままレコード屋とか映画館に行く。あるいは好きなバンドのライブを観に行く。友達同士で服を買いに行く。それができない。

都会まで出てくればいいじゃん、となるけど時間と金とが莫大にかかる。子供の財力ではそれはできない。

大人になってからも、例えば近所にご飯を食べに行こうとか、飲みに行こうとかを想像していただきたい。クルマで行かなくてはいけないからノンアル運転者を確保しなきゃいけない。Googleマップで「居酒屋」「レストラン」などと入力しても出てくる店が圧倒的に少ない。知り合いに鉢合わせる可能性も高い。おしゃれなデートなどできるはずもない。

文化から、距離的にも時間的にも隔絶されているのだ。

文化へのアクセスが悪い

どこに行ってもなにもない。そのことによって副次的にもたらされる影響を想像していただきたい。

老ける、ダサくなる。思春期のモヤモヤを受け止めてくれる場所がない。どこに行っても知ってるヤンキーばっかり。何もないからセッ○スばっかり。逃げ場がない。

ダサくなる

ダサいとかオシャレの概念については、服装に限らず、文化的嗜好、思想などすべてのことをひっくるめて対象としたい。

人は何を見てオシャレを学ぶかというと、それはオシャレな人を見て学ぶのである。

例えばおしゃれな雑誌を買うとしよう。ファッション雑誌でも音楽雑誌でもなんでもいい。またはインスタグラムでおしゃれなモデルさんが来ているおしゃれな服や写真でもいい。

それを私もやりたい!となるのだけれど、まずそのオシャレな服を売っている店がない。しま○らとか、郊外型のユニ○ロとか、よくわからんジャ○コみたいな服売り場しかない。

し○むらもゆ○クロも逆にオシャレじゃん、服は着こなしが重要よ、と思うかもしれないが、もう少し想像してみてほしい。それらが逆にオシャレに着こなせると気づくまでに、あなたの周りにはその他数多のおしゃれな服があり、トライアンドエラーを繰り返してようやくその境地にたどり着いたのではないだろうか。

田舎には田舎の服を田舎風に着ている人しかいない。田舎だけをサンプルにトライアンドエラーを繰り返してオシャレになれるのかといえばそれはとてもとても難しい。

結果的に、オシャレに触れたり試行錯誤を繰り返したりすることなく田舎人のまま大人になってしまう。そもそも周りにそういう人たちしかいないし、人の心に土足で上がり込んで価値観を馬鹿にしてくるような人たちが多いから、オシャレに挑戦するのも恥ずかしくなる。それが互いに影響し合う。

よく、貧困の再生産という言葉が取り沙汰されるされることがある。親がビンボーなら子供に十分に教育機会を与えることができず子供も良い仕事に就くことができず結果として子供もビンボーになるというそれである。

田舎はそれと同じだ。田舎者の再生産、ダサの再生産が繰り返される。

思春期を受け止めてくれる場所がない

学校帰りにタワレコに行ったりライブハウスに行ったり映画に行ったりできないのが田舎である。

あのとき近所にタワレコやライブハウスがあったなら!思春期のモヤモヤをもっとどうにかできたはずだと思うし、もっと文化的な素養が養われたのではないかと思ったりする。もっと早くギターを始めていたかもしれない。別の生き方だってあったかもしれない。都会の中高生が羨ましいなんていまだに思う。

中学生の頃、私の周りの人間はセッ○スばっかりしていたように思う。アダルト判定でアドセンス広告が停止されるのが嫌だから伏字にする。それも生き方なので批判はできないが、セ○クスしかすることがない青春を過ごすのと、それが色々ある選択肢の1つに過ぎないのとでは、生きやすさがぜんぜん違う。

私のように真面目ぶっている気難しいムッツリいけ好かない人間とってはかなり辛い。モテないし斜に構えているのでセッ○スにありつけないのは確かに事実だから、とにかくヤンキーかその取り巻きにマウントを取られまくるし馬鹿にされる。彼らにとって童貞は人間じゃないのだ。

それもいいけれど、勉強して色んなものに触れたい、私には私の生き方があるんだよ、という反論は多勢に無勢なのである。ただダサい変な奴だとのレッテルを貼られて耐え忍ぶしかない。

私の同級生たちは高校で退学になったとか、学校辞めて父親・母親になったとかそんな話がとにかく多かった。当時、散々生き方を馬鹿にしてきたヤンキーが、成人後、同窓会で会った時には父親の顔になっていて、ライフステージ進んでるぜマウントを取ってくるの、良いなぁとは微塵も思わなかったし、なんかムカついた。

逃げ道やサードプレイスがないのがしんどい

気難しい思春期を過ごす者にとって、自分にとって打ち込めることや、心安らぐ存在があることは必要だ。自分の価値観が大切にされる場所は欠かせない。家庭でも学校・職場でもないそういったものを、社会学的には、第三の場所、サードプレイスというらしい。

思春期のモヤモヤはエロばかりではない。それを受け止めるべき存在もエロばかりではないはずだ。その観点で、ヤンキーにもイケイケスポーツマンにも何者にもなれない奴にとって、サードプレイスとなりうる文化的なものが身近にあることは生き方の大きな助けになると思う。

田舎にはそれがないのである。思い悩んで逃げ出す先は家の中かネットぐらいしかない。そう思えば、ネットという居場所ができたという点では良い世の中になったものだ。

私は自分を認めてくれる人がいないような、居場所がないような感覚をずーーーーっと抱えて小中学生を過ごした。たまたま勉強ができたから、すこ〜しだけ田舎度がマシな隣町の進学校な高校に逃げることができた。そこで今でも付き合いのある仲がいい友達もできた。

その後、都会に近い場所の大学に入学した。今までのことを取り戻すように色んなことに手を出したわけだが、そのぶん必要な心の成熟に時間がかかってしまったようにも思う。

余談:マクドナルドとSくん

中学生のとき、私はソフトテニス部だった。運動神経が悪く、同じく運動神経の悪いSくんとペアを組んでいた。Sくんとは部活帰りにたまに遊んだりしていた。

その頃、地元に初のマクドナルドがオープンした。当時は深刻なデフレで、ハンバーガーの価格が1個60円とかの時代だ。

マクドに入店したSくん、「ハンバーガー6個!」と元気に注文していた姿は今でも忘れない。それでも500玉でお釣りが来るんだから笑える。そんな時代があった。

ムラ社会

閑話休題。

ムラ社会というとコモンズとか農村共同体とかそういうイメージの言葉であるけれども、それよりも人々のマインドがマジ村って感じがする。

同調圧力による共同体。社会全体でこれが当たり前だよね、これでいいよね、という価値観を共有し、それを正義とし、ときに排他的になる人達である。

田舎の人たちは別に温かいわけではない

小学生のときに田舎の学校に転校してきたわけだけれど、まぁとにかく浮いた。

日焼けした細い少年たち。昼休みはみんなで毎日サッカー。遊びと言ったら皆で虫取りとか秘密基地作りとか、まさに田舎。その中に、どちらかといえば都会から来た、運動能力の低い、白い少年。そらいじめられる。

幼いもんだからそのへんは次第になあなあになっていくわけだけれども、幼心に感じたあの当初の疎外感というものは忘れられないし、ここは私の居場所じゃないという気持ちはどこかにあった。

都会の喧騒に疲れた人たちが夢見る田舎の長閑な暮らし。都会の喧騒や競争社会に生きていないから、擦れていなくて、優しい人達がそこにいるんじゃないかと想像するかもしれないが、それはない。

多様な価値観に触れないまま大人になっているから、自分の当たり前を疑わないし、当たり前じゃないことや知らないことを怖がったり、批判したり、同化しようとする傾向があると思う。

そういう人たちが都会からやってきた人たちに優しいかといえばそうではないし、モノとモノの距離は離れているのに人と人の距離は近いもんだから、デリカシーなく自分の価値感を押し付けてきたりする。

ヤンキーと祭り

中学生になると同級生がなんだかだんだんヤンキー化してくる。タバコを吸い始めたり人を殴ったりつるんだり原付乗り回したり金髪にしたり学校サボったりし始める。

界隈によっては信じられない話かもしれないが、そういう人たちが花形であるというような時代があるのだ。まぁモテるしなんかわからんけど生徒会やってたりするし、そういう感じ。

田舎はだだっ広けれども場所がないから、図書館のある複合施設に行こうとも、スーパーに行こうとも、知り合いに会ってしまう。

なにもない田舎にも祭りはある。祭りぐらいしかないから、行けばヤンキーに会ってしまう。

祭り会場に行くと、支配的な同級生ヤンキーが女を連れて一生懸命騒いでいたりする。そこでもまた私のようなイケてない人たちはヤンキーに絡まれ、少なからず嫌な思いをする。

これらのことは象徴的な例に過ぎず、実例としては枚挙に暇がない。この価値観が支配的な時代というのは、相容れない人間にとって地獄である。

規模の大きな傷の舐め合いだ

都会に出てきて思うのが、近所付き合いも程々で良かったりして楽だということ。お互いにそう思っている人たちの集まり。互いに干渉しない。

じゃあ都会の暮らしにおいて人間関係が希薄かと言われれば、そもそも人は多いので趣味のコミュニティやサークルなんかも多数存在していて。ジムに入会するとかでもいい。バーに通うとかでもいい。そうやって自分のやりたいことでつながる関係を、小規模に選択的・能動的に作れるのが都会の良いところだと思う。

これに対して先述のとおり、田舎は支配的な価値観があり、排他的でありがちだ。自分たちの世界のことしか知らないのに、他者をバカにしたりしようとするし、それを以て自分たちの存在価値を守ろうとする。

離れて思う、それは傷の舐め合いにすぎないと。

没個性

言い得て妙だなと思ったのがこれ。

いやまさにそうなんだよ。あんなに自然は豊かなのに人間が全然豊かじゃないじゃん。

多様性への無理解

田舎で思春期になにか文化的なことをしようとすると、そもそも仲間が見つからずに孤立しがちである。それに、支配的なヤンキーに馬鹿にされて自尊心やアイデンティティが傷つけられることが大きい。

新しいことをなにか始めようとするとき、何調子乗ってんの?とか何色気づいてんの?とか、そんなもん上手くいくわけないよ、とか、一番言ったらダメなやつだと思うけれども、そんなことを言う人達だらけだった。

田舎者は自分と同じ価値観以外のものが怖い。新しいものをとにかく嫌う。

私が隣町の高校を受験するというとき、母親は近所の人に小馬鹿にされてムカついたと言っていた。偏差値が20ぐらい低い地元の伝統ある高校に入ることこそが正義なのである。

教育者だって田舎者

小中学校だって田舎もんの教員が教えている。先述のとおり街全体に新しいものを受け入れようという姿勢が欠けている結果、やはり子どもたちに対する教育観だって時代遅れだ。

もちろん良い先生もいたけれど、ほんとヤバい教員が多く、野放しにされていた。いじめられて泣いてるほうが悪いと言い放ったりとか、教員が児童に頭突きしたりとか。

いろいろ理由はあろうかと思う。都会で働き口がなかった教員がやむなく田舎で働いているとか。田舎では役人が「お上」であると考える人が多いので親は教員や教育委員会にあまり文句を言わないのだろう、とか。なんせそんな状況である。

田舎もんに育てられればやはり田舎もんに育つ。その意味でも田舎は田舎者を再生産している。

参考になる人が身近にいなくて人生観がフワフワする

先程も触れたが、田舎にいる人生の先輩たちは、田舎の外に出たことないか、都会に馴染めなかった・仕事がなかったという理由で田舎にいる場合が多い。

例えば友達の親はほとんど農家だし、教員も都会就職失敗組が多いし、そういう大人たちのもとに育つことになる。都会で就職した人は田舎にいないので、田舎の人たちにとって人生の先輩になることもない。

住む場所は重要だ。都会であればこのライブハウスがかの有名なミュージシャンを排出したとか、友達の親がサラリーマンだ、大学のセンセイだ、とかそういう話を聞く。そういう親や人生の先輩を見て育てば、自分はいつどんな取り組みをすればいいのかのヒントを得られるように思う。

地方から京都大学へ。その時まで、僕は「教育の地域間格差」の本当の根深さを知らなかったのだ
僕にとって受験は、人生からの脱出ゲームだった。しかし、大学に入ってすぐに周囲との大きなギャップに気付いた。進学の意味づけ、ライフコースの解像度が、全然違う。自分にとって自由の始まりだった大学は、多くの人にとって整備された手順の一つだった。

この記事がちょっと面白かった。人生の解像度が都会育ちと田舎育ちでは全然違う。まぁほんと、私も入学したときに思ったよ、周りの人のライフプランがしっかりしてること。

これは良い悪い両方の側面があるように思う。田舎すごろくから抜け出して自由を手に入れるぞと都会の方にある大学に来て、フワフワと8年間も学生をやって就職した。

翻って、自分が子育てをどこでやるかという話になると難しい話になる。すなわち、田舎で子育てをするとやっぱりその辺がフワフワした子に育ってしまうんではないかと思うのである。

幼い頃から、人生の先輩たちによって様々な選択肢が示されている状態で育つのと、よくわかんないけれど大学に行けばその後の世界が広がっているらしいという状態で育つのとでは、やはり人生観が随分異なってくるように思う。

私個人としては、田舎で育ったぶん、そのあたり損した気持ちがある。

田舎で育つと時代遅れの価値観による同調圧力により没個性的な感性を養ってしまう。それは自分にとって違うと思って他のことをやろうとするのだけど、参考になる人がいなくて、明確な選択肢を見いだせない。結果、没個性から抜け出せたとしても、フワフワした人間になってしまう可能性が高いような気がする。

ひとしきり愚痴を書いたのでここらで筆を置く。

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