X(Twitter)を辞めた理由・また始めた理由

随筆

ああでもないこうでもないと色々考えては何かを始めたり辞めてみたりと、人生の丁度いい塩梅を探し続けて、半径数メートル圏内をフラフラしている。

やれ資格を取ろうとしてみたりだの、坊主にしたかと思えばロン毛にしてみたりだの、色んな趣味に手を出しては辞めて、また始めたりして。でもまぁそれでいいと思っている。何も恥じることはない。

いい塩梅を探す過程で、4月にTwitterを辞めて、なんか知らんけどXになったTwitterを10月にまた始めた。

Twitterを辞めた理由

Twitterを辞めた理由はなんか色々しんどかったからだ。何がしんどかったのか。書いてみたい。

現実世界の事物に対して何だか申し訳ない

自らを見せびらかし、他人に見られている状況を作ることは、ある意味では自分を鼓舞するのによいツールではあって、そのように考えて便利に使っていたことはあった。

そもそもTwitterアカウントはブログの周知のために始めたが、ブログを書く意欲にもムラがあって、大したやる気がなくても動かせるTwitterがある意味独り歩きしている状態になった。

SNSをやるとイキリたい気持ちが抑えられない。見栄を張ろう、いい奴あるいはカッコいい人間だと思われよう、などといった気持ちが少なからずある。

そうすると、SNSに投稿するために写真を撮る、そういう写真を撮るためにちょっとええ料理を作る、などといった、家庭と向き合い愛情を育むには少しずれた、馬鹿げた行動を取ってしまって、これが少し申し訳なく思った。

SNSに写真をアップし見栄を張るために日々暮らしてんじゃないよって思ったのだ。

近頃世の中が暗く見え、隣の青い芝が羨ましい

Twitterは昔と比べてソーシャルネットワーキングな側面が強いツールになってきた。ソーシャルとネットワーキングしちゃうんで、望むと望まざるとに関わらず、いろんな情報が入ってくる。

仕組みとしては基本的に協調フィルタリングというもので、要するにアマゾンのおすすめと同じ、自分が繋がっている人や閲覧履歴、いいね履歴から、アンタこんなコンテンツも好きでしょとオススメをしてくるわけだ。類友というか、ミイラ取りをミイラにする情報というか。

それは所詮オススメ情報に過ぎないわけであって、望むものとは違うことが多い。自分の属性と親和性が高く、ときにつらい情報が飛び込んでくる。

じゃあ私みたいな世相を憂う者に対しては、何が飛び込んでくるかというと、やっぱり世の中暗いよねしんどいよね生きるの辛いよねという情報だったり、なんだか説教臭い情報だったりする。私自身がそんな人間だからいけないのだが、私は何らそんな情報を望んでいない。

増税!◯◯政権を許さない!とか、貧困や、夫婦の恨み節やら、何や今まで気にしていなかったマイノリティの人権や、そういった、今まで自分の認識範囲の中で処理していなかった、見えている範囲には存在しなかった、避けていた、知らなかった、本来クソどうでもいいはずの数々の憂いを受け入れなくてはならなくなってしまうのである。

そうやって闇にどっぷりと浸かってしまって、より深みにはまって世を憂いたとて、自分の人生がハッピーになるものではない。私は自分の見えている範囲の功利さえ叶えばよく、他のことなんか知ったこっちゃないし、蒙昧なままで良かったのに、そうじゃなくなってしまったのだ。

そのあたりを上手く消化し昇華している人間が少なからずいる。他者とのコミュニケーションを程々に楽しみつつ、自分の生活を豊かにしている器用な人間がいて、詰まるところ陽キャなわけだが、それが羨ましくて耐えられなくもなった。自分よりも何か楽しそうで、真っ当に頑張っていて、金を持っていて、モテそうな人間たちの活躍から元気を貰えるほど性格はよくない。

メジャーリーグの大谷翔平選手の活躍にかかる街頭インタビューで、元気をもらえたとか、感動をありがとうとか言う人の気が知れなかった。自分の何百倍も努力をし、数々の善い行いをして運をも味方につけ、偉業を成し遂げた人間の活躍で、全くなにも関係のないちっぽけな自分がもらえる元気なんて何一つあるまい、と思ってしまうからだ。

彼岸の太陽からは焼かれることはあっても救いを得られることなどない。

触れ合わなきゃいい人間と触れ合ってつらい思いをしてしまう

自分と似たような人たちとばかりつるんではいられないのが人間社会というもので、触れたくもない超しんどい人たちや、まぁ超しんどいとまでは行かないけれど長く触れ合ってみると自分とは相容れないなとわかる人というのがいる。触れ合う中で、よくそんな無神経を人に向けられるな、傷ついちゃうな、しんどいな、と思うことがある。

現実においては、嫌いな人間と相対することとなっても、当たり障りのない深さのふれあいに留めおくとか、顔色を見て互いに溜飲を下げるとか、そういったコミュニケーションの曖昧性みたいなものに頼って、逃げ、保身することができるのだけれど、Twitterというのはそうも行かず、自分に@された活字のメッセージが刺さる。

また、そうでなくとも、卑怯な怖いもの見たさのようなものが働いてしまって、見なきゃいいのに要らない情報を見に行ってしまう。そうして自分も病んでしまう。やはりミイラ取り向けの情報というか、深淵の闇にやられてしまうのである。魑魅魍魎が跋扈する肥溜めにわざわざ飛び込むような真似をしててしまうのである。

会わなきゃいい馬鹿に会いに行って辛い思いをするのは、これはもう若者の恋愛みたいなもんであって、歳を取ってしまった私にはたいへん辛い所業なのである。

所詮私は陰キャだった

私が事物を心理的に処理できるのはせいぜい半径数メートル以内の話であって、どうだろう、現実世界を見渡せば恒常的に認識しているのは家族か、職場の人間か、大学のときの友達でも気を遣わない数人か、そんなとこだと思う。500人をフォローし600人にフォローされるだけのキャパシティが私にはなかった。歳をとり事なかれ主義が加速する中で、それを楽しいと思えないぐらいには私はやはり陰キャだったのだ。

私は一人でバーに行って酒を飲むのは好きだが、4・5人以上の飲み会というのは大変苦手である。秘密主義なところもあるし、他人の懐に入るのも苦手だし、何を話していいか分からなくなって、息苦しくなる。Twitterで数百人つながりがある状態というのは、毎日大きな飲み会にいるような状態に近かった。

陰キャには過ぎたツール、それがSNSである。SNSにも色々あり、さぁ例えばインスタやらティックトックやらある中では、おそらくTwitterは最も陰キャフレンドリーなツールだと思う。レコメンドの嵐!みたいなものが最も弱く、クラスタリングがはっきりしている。それでさえ、私にはしんどかった。

そもそも、私の使い方が良くなかった。ブログの周知のために始めて、なんだかイケイケの波みたいなものの煽りを受けて、フォロワーを増やさなければいけないような気がし、コミュニケーション圏域を拡大させたから良くなかった。大したコンテンツも持ち合わせていないのにだ。海パンと竹槍を持ってわざわざ大嵐の大海のなかで凍えるような真似をするからいけなかったのである。

また始めた理由

じゃあなんでまたわざわざ、始めたのか。こんだけルサンチマンを吐露しておいて何だ。

ツイッターでできた友達の近況は知っておきたかった

2022年の夏に、東京に行って、Twitterでできた友達と会った。2023年の春に大阪にわざわざやってきた友達と飲み、風呂に行くなどした。それが楽しかった。Twitterを辞めるときにLINEを教えた友達の近況が気になるなどした。そういったのを知れる状態にはしておきたいと思った。大海の中で半径数メートルの中にいてほしいと思った人たちだった。

SNSの代わりに見るのはネットニュースで、それも面白くなかった

本を読んで満足すればいいのだけど、本を読むのにも体力を使うというか、自分の中で流行りがあるというか。何もやる気が起こらないときには、結局GoogleニュースやSmartNewsなどを開いて世の中の情報を得ようとする。

それがまたクラスタリングされた情報であって、自分の興味が反映された情報が跳ね返ってくる。自分の下世話さが気になるとともに、一方的に与えられるだけの情報は面白いものではないなと感じた。べつに芸能ニュースも海外情勢もそこまで知りたかねぇんだ私は。

用意されたものを喜んで血肉にできるほど賢い人間でもなく、卑しいほどに強欲な人間ではあったのだ。

半径数メートルで処理できる範囲なら楽しいのではないかと思った

処理できないぐらい風呂敷を広げるから良くないのだと思った。幸いにも、辞めたことまた始めることについて微塵も恥に思わない図々しさを持ち合わせているので、全く同じID・名前でXを始めた。

もうフォロワーを増やそうとも思わないし、自分をよく見せようとも思わない、自分の半径数メートルの中でだけXしようと思う。また辞めてしまうかもしれないが、楽しいと思える範囲で細々とやっていこうと思う。

子育ての情報収集だってしたい。玉石混淆な情報からコレというものを探し当てるは大変であることは分かっているが、あまりにドメスティックに独断に陥ってしまわないようにするには、周囲への情報にアクセスできる状態にしておく必要はあるとも考えた。

というわけで厚顔無恥ながらこれからまたXすることにした。よろしくお願いしたい。なにXって。違和感いまだにあるわ。チョメチョメ。

タイトルとURLをコピーしました