そして、いつか笑っていようぜ。
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俳句を、写真みたいだなと思うことがある。
写真を、俳句みたいだなと思うことがある。
どちらも景色や時間の一部分を切り取る行為だが、
描かれていない時間や空間の広がりを感じさせるような作品が多くあると思う。
もちろんそうでなくてはいけない訳じゃないが、そのような作品を美しく思う。
このブログのように、3000文字を使うことができるなら、表現のハードルが下がる。
3000文字も使っていいのだから。10年の出来事を1ページに収めることもできる。
1枚の写真はとってもシンプルである。
紙っぺらに、誰かがファインダーから覗いた景色が転写されているだけだ。
前後関係とか空間の広がりとか考えていない場合もあるわけで。
それは、その人が写真に収めたい、切り取りたい、残したい景色だったのだろう。
なぜ残したいと思ったのだろうか?といったことを想像するのは楽しい。
きれいだったから!十分すぎる理由!
かわいいと思ったから!それ以外に何がある!
自己顕示欲!それも素晴らしい、認めてもらおうぜみんなに!
何気なく!まぁそうだよね、日記の代わりだよね!とか。
で、撮影者の意図があってかなくてか、
出来上がるのは4:3ないしは16:9の枠内に描かれた高精度な絵である。
ただ絵として知覚するだけでも良いのだが、想像をふくらませることができる。
料理の写真なら、
ソースは何と何を合わせたのだろうか?
そのナスはどこで採れたのだろうか?
誰のために調理したのだろうか?とか。
旅先の写真なら、
その建物は何か?
どういう由緒があるのか?
撮った人はどういう旅行をしているのか?
そこにはどんな草木が生えているのか?
そこに来るまでに何食べたんだろうか?とか。
そういうわけで、写真というものは、描かれているもの以上の情報を含むことがある。
逆にその性質を利用して、悪意のある描写をすることもできる。
週刊誌で決定的瞬間!などと言い、デタラメな前後関係を据えることもできる。
誰と誰が仲良しだとか険悪だとかを印象づけることもできる。
百聞は一見に如かずという言葉もあるほど、目で見たものはパワフルだけれど、
パワフルなだけに良くも悪くも強い印象を与える。
それでも写真は「写真」という名前でいいのだろうと思う。
ただただ、誰かがファインダーで視界の一部を切り取っただけなのである。
知覚する段階では、視覚情報のコピーなのである。
見る側の認識において、色々と勝手に情報を付加するのである。
写真のことを、シンプルで難しく、面白い、素敵なオモチャであると思う。
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自分が撮った写真はまた独特の意味合いがあるように思う。
それは、記憶を呼び起こす強力なトリガーになるという点。
最近まで、写真を撮る習慣が私にはなかった。
しかし今は、事あるごとに写真を撮るようになった。
数日後、数年後、死ぬ前などにもう一度見たいシーンというものがあるように思う。
それをありありと切り取っておくことができるのが、写真というものだ。
そして、残しておきたいと思うシーンが近頃増えた。
なぜ写真を撮りたいと思うようになったか、その理由を考えてみると、大きく2つある。
1つは、もう黒歴史にするまいと思う人生をなんとか歩み始めることができたこと。
もう1つは、たぶん、歳をとったから。
前者の理由については、こうだ。
数年前まで自分の人生に納得していなかったので、こんなもん写真に残してもなぁ、と思っていた。
でも、最近は写真に残しても恥ずかしくはない人生に転じてきているということある。
人生を選り好みして生きたいのだ。
これはもう、しょうもない自尊心にほかならない。
まぁ、これでいいや、これがいいやと思えることが増えてきた。
だから、何の屈託もなく、良いなと思ったシーンを切り取りたいと思うことが増えた。
後者の理由はこうだ。
最近、忘れてしまうようなことが増えたからだ。
ただ、ヒントがあれば思い出すことができる。
健忘とか、記憶力の低下とか、そういう話ではない。
脳の機能は衰えてはいないと思う。
体験したことひとつひとつの特異性が落ちてきているように思う。
良いように言えば、経験が増えたから、動じることが少なくなった。
悪いように言えば、目新しいことが減って、印象に残らなくなった。
おっさんになってしまった。
幼いころのように、日々の体験が新しくないのだ。
以下、合っているのか合っていないのか、屁理屈である。
7歳の子どもにとっての今日という日は、1/(365×7)のインパクトがある。
31歳にとっては、今日は1/(365×31)のインパクトしかない。
はじめての経験は1/1の濃度だが、10回経験したことは1/10に希釈される。
そんな感じがあるのである。
昨日と変わりのない日々を過ごそうという保守的な志向だろうか。
まぁなんせ、日々の生活で脳の海馬がちゃんと仕事をしない。
代わり映えしない日々は記憶に残さなくていいよ、忘れていいよ、とそういうわけである。
だから、日々の記憶をどんどん失いながら、時が流れていく。
写真というのは、否応無しに進む時の流れに、ポイントを打つ行為なのだと思う。
写真を撮ろうとすること自体が、目の前のシーンを印象付けようとする行為であり、
「これはどうでもよくない経験なんだよ」と脳に教えてくれるように思う。
能動的に、感動しようというのだ。きっと印象的なことなんだよ、と教えてくれるのだ。
昨年、デジタル一眼レフカメラを購入した。
これからの人生は都度写真に残していこうというものである。
そして、良いと思ったものを写真に撮影してきた。
ブログも始めた。人生の記録を文字や写真で残そうということだ。
過ぎていく日々のなかに、この時は大切なのだよ、と付箋を貼っていくのだ。
自分が死ぬときに、走馬灯にいくつか表れてくれたなら、うれしい。
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写真を撮る習慣がなかったばかりでなく、写真を撮るのがあまり好きではなかった。
今や自分が作った料理は写真に残すようにしているが、それはブログやTwitterのためである。
写真を撮ること自体はやはり、あまり好きではない。
写真を撮るということは、現実の動きからすると、
モタつくというか、ワンテンポ遅れるというか。
その行為があまり好きになれなかった。
観光地などで人の流れを遮ってまで写真を撮ることや、
料理が冷めてしまうほど何度も何度も撮ることが、あまり好きでない。
目で見たものそのまま、それこそが真ではあるまいか。
何度も何度も撮り直して、ウソみたいなきれいな瞬間を残しても仕方ないじゃないか。
しかし、きれいな写真を撮ったことによって、そしてそれをブログやTwitterに掲載したことによって、
みんなにキレイ!とか美味しそう!とか言っていただけるのはやはりうれしい。
それはそれは超うれしいのである。
あしたも頑張れる。
おっさんはとっても喜んでいるのである。
おっさんになっても承認欲求というものは健在である。
承認欲求もさることながら、社会とつながっていないと頑張れない体質にもなってきた。
自分の人生の先が知れてしまって、自分を自分で鼓舞するのが困難になってきた。
だから、日々の自分の生活のうち見せてもいいキレイな部分を写真に切り取って、SNSに公開するのである。
ホラ素敵でしょう?いいねを頂戴?とばかりに。
おっさん、褒められないと頑張れないのである。
ブログを金儲けの手段だとばかり考えているのなら、こんなブログは書かないだろう。
ライフログでしかないというのなら、非公開の日記に書けばよい。
おっさんはこれからも自己矛盾を抱えたままブログやTwittterにきれいな写真を載せつづけるし、
いいねやコメントを欲しがりつづけるだろう。
「3000文字チャレンジ」第79弾【写真】
- この記事は、3000文字チャレンジで書きました。第79弾のお題は【写真】
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